ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

お子様フェスティバル

 3歳くらいの子供はシュールなことをするので見ていて面白い。豚を一定の向きに置いて、置いた向きとは関係なく引きずり回したり、引き戸のレールを跨ぐ時に必ず「いらっしゃい」と大人に言わせたり、コップを持っていると「ふーふーして飲んでね」と声をかけたりしてくる。冷まさずに飲むとやや不満そうな顔をするなど、頑固な一面もある。
 ちゃんとした大人達に育ててもらえる子はありがとうも言えるようになるし、そういう子にはなんだか良さげな未来が待っていそうだ。(今日、遊びに来た夫婦は、実にちゃんとしているのだ。)
 翻って、35歳児に育てられてしまう子供は不憫である。このところ、毎日懺悔の日々だが、特に反省もしていない。
 経験的に、愛されて育った奴は大体大らかで平和な感じになるし、適度に虐げられて育った奴は大体ジャックナイフみたいな感じになることがわかっているので、我が家では切れ味を重視していこうと思う。当然の帰結として、おれの子供は多分、親より祖父に似ることだろう。そして多分、父親と折り合いが悪くなる。彼はおれを許してくれるだろうか。名前はまだ無い。アーメン。

中洲さん、人力飛行に挑む

 いつも身の置き所が無い。中途半端な、中洲のようなところに立っていて、川のあちら側とこちら側が両方よく見えるのに、そのどちらからも隔たった場所にいるように思う。

 中島らもは、アルコール、ドラッグ体験についてある種サバイバーズ・ギルトのような感覚を持っていたように思う。その表れ方は、罪悪感というよりも「みんなあっちに行ってもうた」という寂しさのようなものだった気はするが、結局は彼も、中洲で遊んでいるうちにあちら側へ流されて、二度と戻ってこれなくなった。実に彼らしい、愛嬌のある冴えないやり方で。

 いまのところ、おれは中島らもほど酩酊することはないし、彼よりは随分とこちら側にいるつもりだが、その自己認識だって怪しいものだ。一方で、ちゃんと、まっとうに日々暮らしている、もっとこちら側の人たちのことを思うと、おれもこの中洲から、ちょっとあちら側の小島に泳いで渡ってみたいなという気持ちにならないではない。でも、結局泳ぎ出せないのがおれの良いところだ。どうせ進むなら、空中に向かって垂直に平泳ぎするような、そういうものにおれはなりたい。なんで浮いてんの、みたいな。

 昔はよく飛び方が解る夢を見たのだが、このところ、スーパーにいる夢が多い。地獄産豚ロース100g666円、うーん、今日は魚にするか・・・ややっ、万引きだ、殺せ!殺せ!デビールマーン!(あれは誰だ?)その光景をぼんやり眺めながら、平和だなあとレジに並んでいる。万引き犯はとても永井豪タッチなのだが、レジ前はすごく明るくて清潔だ。デビルマネーはあぶく銭、ポイントはお貯めになりますか?あ、使ってください・・・そろそろ万馬券でも当てるか・・・

 最近、当たり前のことばかり考えているような気がする。多分それは、とても良いことだろう。





この上なくロマンティックで複雑

 自宅に「運命日占い 決定版2016」という本が転がっていた。これは結婚によって生じた生活の変化(望むと望まざると)のひとつだが、最近のおれは変化をポジティブに受け入れる柔軟な姿勢を示している。何しろ柔軟剤だって使っているのだ。
 で、開いてみると、ど頭から「2016年はこの上なくロマンティックでーー複雑!」。この笑顔で暴力、みたいな言葉のパワーとシズル感はどうだろう。変化を受け入れるポジティブなマインドを心掛けてはいるが、こう溌剌と適当な言説を流布されてしまっては否応なくおれの皮肉エンジン(直列1亀頭)が始動していまい、冬の朝に冷えた部屋のテンションが急上昇していく。多分疲れてるのよ、わたし。
 それにしても、この上なくロマンティックで複雑。2016年以外に、他のどんな現象がこの上なくロマンティックで複雑であり得るだろうか。もしかして、恋?言ってておれもなんだかよくわからないが、実に扇情的である。一体全体、どんな言語野からこういったパルプでエコノミックなフレーズが飛び出してくるのか(これは皮肉抜きで)驚きを禁じ得ない。
 この奇書の目次は、『※「運命日」は日本の東京を基準に鑑定しています。海外滞在時は時差を考慮してお読みください。』という注釈で締めくくられていた。なんやねんその気の使い方。