ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

わからないについて

 親父がジジイになってきている。会話の相手の頭の中にある情報と、自身の差異を考慮せずに一方的に語るのだ。聞くほうは、何の話をしているのか要領を得ない。それで、会話の入り口でつまづいてしまう。端的にムッとする。

 今日は、突然「灯油の金を払え」と言ってきた。なんの話?わからない。灯油に関してはそれぞれ使う量が違うし、お互いが不公平を感じる原因になるから、各々の自己負担にしようと決めたばかりだった。そう決めたのに、この滑り出し。何の話か見えないくてムッとしているものだから、「俺は今年、灯油使ってねえぞ」とブッキラボーに言うと、酒屋からお前の分の灯油が配達されてきて、その金を立て替えておいてやったんだ、と親父は言う。だが、俺は灯油など頼んでいない。

 結局、酒屋が間違えて配達してきたのではないか、ということになった。事態は一件落着。しかし、不満は残る。俺と親父が納得するまでの過程で、親父が何を情報として持っていて、誰が何をどう誤解していて、結局事態はどういう状況なのか。あれこれの前提を無視して、とりあえず俺にボールを投げやがる。投げられたほうは、「わからない」を整理して、これが「わからない」と返してやらなければならない。非対称だ。考えるのが、なんで全部俺なんだ。俺は心が狭い。人のリソースばっかり使いやがって、もっと頭を使って話せよ、と憤る。俺は心が狭いのだ。

 ところで、「わからない」は有用なこともある。文章表現に用いると、良いフックとなることがある。これは表現道場で言われたことだったと思うが、説明しすぎる文章は読者の興味を引かない。

 わからないことが書いてあって、なんだ?と思う。その疑問を解決するために、先を読む。そうやって、読者の注意を先へ、先へと引いて、解決し、また気を引いて、あきさせない。恋愛の手管のようだ。

 匂いって何だろう?

 これは、坂口安吾の短編、青鬼の褌を洗う女の冒頭、一段落目。センテンスは1つだけ。こう来られると、匂いって何だろう、と考えてしまう。けれど、何の話かは全然見えない。見えないが、とても気になる一言だ。安吾は恋愛上手である。続く段落で、こう受ける。

 私は近頃人の話をきいていても、言葉を鼻で嗅ぐようになった。ああ、そんな匂いかと思う。それだけなのだ。つまり頭でききとめて考えるということがなくなったのだから、匂いというのは、頭がカラッポだということなんだろう。

 一つ一つが、なんともサバサバとした、しかし艶のある言葉づかいだ。言葉を鼻で嗅ぐ。匂いというのは、頭がカラッポだということ。少しわかったような気にもなるし、もっとわかりたい、と思ってしまう。とにかくこの一文の、なんと情報量が多いことか。通常、視覚や聴覚でインプットされる文字、を、より感覚的な嗅覚、で「嗅ぐ」、字面としては極めて簡単な語句を並べただけの「言葉を鼻で嗅ぐ」。これだけで、この女がどういう感性を持つのか、想像させるイメージの精確さと、余地の広さと、要するに安吾すげえ。今年は安吾を読み返して、年末には、この安吾がすごい!2015でも開催できるくらいになっておきたいものだ。

 わからないでムッとしたり、わからないでハッとしたり、我ながら身勝手な奴だとは思うが、言葉は面白い。わからないは悪いことばかりではない。