ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

哲学おじさん集(あるいは西洋哲学史概説としての反哲学入門)

 「反哲学入門」を読み終わったので、登場した哲学者について、すこし復習をしておく。著者の木田先生はハイデガーがご専門で、本書はハイデガーに至るまでの西洋哲学史を概観する、優れた入門書となっている。

 本文は会話を元に手直しした平明な筆致でしるされており、「その分、細部については詰めの甘い所も多々あり、より詳細/厳密な内容については別の本を参照してほしい」というようなことをあとがきで述懐なさっておられるが、むしろ抜群に読みやすい仕上がりになっている。ありがたい。

 

ソクラテス(紀元前469年ごろ生まれ)

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 全てを否定する超皮肉おじさん。ソクラテス以前の自然的思考を全て否定しまくって解体したが、何かしらの思想らしき思想を残したわけではなく、プラトン以降の超自然的思考が生まれる前の整地作業をやった、という感じ。ギリシャ哲学の終点、西洋哲学の始点に位置するおじさん。顔が怖い。

 

プラトン(紀元前427年うまれ)

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 イデアおじさん。西洋哲学/キリスト教の世界観に大変大きな影響を与えた。西洋を理解するには、プラトンを理解する必要がある。(後年にニーチェが批判したのはプラトン以降の哲学であり、「反哲学」は「アンチ・プラトニズム」と言い換えてもよい。)

 プラトンおじさんは、1000年近く続いたというロマンあふれる大学「アカデメイア」を設立したことでも有名。

 なお、アカデメイアが閉鎖された529年には、オランジェ公会議、オランジェ宗教会議、などと呼ばれる会議があって、そこでプラトン的世界観とキリスト教の教義が合体したようなのだが、同じ年のアカデメイアの閉鎖とのつながりがよくわからない。

プラトン思想とキリスト教の教義が合流した年に、プラトンの作った学校が、キリスト教会の手によって閉鎖されて、学者達が追放されているのはなんで?)

 

アリストテレス(紀元前384年生まれ)

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 「反哲学入門」を読んだ限り、個人的にあまり印象に残らなかったおじさん。顔も地味。プラトン先生のお弟子さんで、哲学史的には超有名人。

 先生であるプラトンの考えでは、イデアと現実世界ははっきりくっきり分かれたものだったようだが、弟子であるアリストテレスは、イデアと現実世界は、もう少し連続性のある関係だと考えた。そこでアリストテレスは、イデアの概念を発展、継承して、それに「純粋形相」という名前をつけた。

 

トマス=アクィナス・神学大全(1225年ごろ生まれ)

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 嫁に食わすなでお馴染み、スコラ哲学おじさん。「神学大全」という大層な名前の本を書いて、キリスト教の教義体系を組織し直した。

 暗黒時代のヨーロッパにはローマ・カトリック教会以外に広範で有力な組織がなかったので、教会は様々な問題に介入する必要に迫られたらしい。当時教会の主流だったプラトン-アウグスティヌス主義は、「神の国」と「地の国」をはっきり分ける考え方をしていて、それは「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」という言葉に端的に表されている。

 プラトン-アウグスティヌス主義の教義と、現実の政治への介入は、色々な点で齟齬をきたしてしまう。そこで教会は教義を再編成する必要に迫られたのだが、トマスおじさんが見事にその仕事を仕上げた。

 トマスおじさんは、教義の再編成にあたってアリストテレスの思想を下敷きとした。教会が政治に介入する際の理論的根拠となるような教義を編成するには、プラトンイデア(理念/現実世界が明確に区別される)より、アリストテレスの純粋形相(理念/現実世界に連続性がある)の方が都合が良かったということらしい。

 その後、アリストテレス-トマス主義は、しばらくキリスト教の正統教義とみとめられるようになるが、のちのち世俗化→腐敗→宗教改革、の流れに繋がることになる。

 

デカルト方法序説(1596年生まれ)

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 「我思う、故に我あり」などという、わかったようなわからないようなことを言っているおじさん。この名ゼリフのおかげもあってか近代的自我の確立に先鞭をつけたなどと言われることが多いようだが、むしろ数学的自然科学の哲学的基礎づけを行ったと見るべきではないかと、木田先生は言っている。

 コペルニクス、ティコ・ブラーエ、ケプラーダヴィンチ、ガリレオなど、ルネッサンス期に花開きつつあった、科学的観察、科学的手法の成果を下敷きとしながら、「普遍数学」なるものを志向していたらしい。つまり数学大好きおじさん。この時代に解析幾何学を構想した、というスゴイおじさんだ。

 なお、この時代の物理学の発展は、「「余剰次元」と逆二乗則の破れ」においても紙幅が割かれているので、あわせて読むとなんとなくデカルトの仕事の動機、背景がわかりやすい。

 

カント・純粋理性批判(1724年生まれ)

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 神の首を切り落とした男。なんだか髪型もベートーベンみたいだしかっこいい。哲学者といえばカントおじさんである。

 神学・形而上学と、幾何学・数論・理論物理学(数学的自然科学)の間に明確な境界線を引くことに成功した。デカルトの時代においては、キリスト教会の教義と矛盾しない形で理論を構築することが要求された(異端扱いされるとまずいし、実際デカルトはスコラ哲学の主流派からかなりやられたらしい)が、カントはもっと過激に「神とか関係なく、1+1は常に2で、それは普遍的に妥当やねん」というようなことを、明確に理論づけてしまった。

 主著とされる「純粋理性批判」は、「理性」の限界を規定するという構想に基いて著されている。ここでいう「理性」という言葉は、プラトンがいうイデアアリストテレスが言う純粋形相、神学、スコラ哲学における神、などに連なる形而上的な概念のことであるが、それまで「神様からおすそ分けしてもらって人間に宿っている」とされていた超自然的原理を、神から切り離して人間由来の成分として定義し直した。

 その理論を構築する上で、「人間の認識が対象に依存している」という考え方から、「対象が人間の認識に依存している」という考え方に180度シフトすることが決定的に重要だったという(コペルニクス的転回)。

 人間が、「あるフィルター」を通して見ることによって立ち現われるのが「世界」で、実は世界は人間の認識が作り出している、というような考え方は今でこそけっこう当たり前になっているが、それを最初に考えだしたのがこのカントおじさんである。12年間も考えぬいたらしい。

 

ヘーゲル精神現象学(1770年生まれ)

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 自意識過剰おじさん。プラトンから連なる西洋哲学のひとつの終点に位置するおじさんだと思われる。カントの「理性」を継承して発展させた概念「精神」の使い手で、ドイツ観念論の巨峰。すごい人、というのは史実からわかるのだが、何を言っているのかは全然わからない。顔も怖いし。

 なんだかよくわからないので木田先生の記述をそのまま引用すると、

人間理性はカント哲学によって、自然の科学的認識と技術的支配の可能性を約束されましたが、今度はヘーゲル哲学によって、社会の合理的形成の可能性を保証され、自然的および社会的世界に対する超越論的主観としての位置を手に入れたことになります。 

 

とのことである。

 ヘーゲルおじさんは、超自然的な原理を、カントの「理性」概念よりも有機的なものと捉え、これを「精神」と命名した。これは、プラトンの「イデア」とアリストテレスの「純粋形相」の関係に似ている気がしなくもない。

 ヘーゲルによれば、世界と精神は相互的に関わり、とどのつまり弁証法的にナントカするのである。ぜんぜんわからない。

 

ニーチェツァラトゥストラはかく語りき(1844年生まれ)

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 イデア、純粋形相、神、理性、精神と連なる「超自然的原理」を、「そんなのもともと存在しねーじゃん」と言ってしまった反逆のおじさん。気が狂って死んだ。なお、妹大好きだった模様。

  本書の主要なテーマ「反哲学」は、ニーチェの思想に端を発する。ニーチェが目指したのは「哲学批判」であり、ニーチェは、

感性的世界、つまりこの自然を超えたところにそうした超感性的・超自然的価値を設定した元凶はプラトンだと見て 

 いたそうだ。なお、本書で木田先生が繰り返し強調している点が、ニーチェの章の冒頭でも改めて触れられている。

わたしはここまで、いわゆる「哲学」について、ある一つの視点からかいつまんで紹介をしてきました。まず、「超自然的原理」(伝統的な用語でなら「形而上学的原理」)を立て、それを媒介にして自然を見、自然と関わるような思考様式(つまり「形而上学」)、これこそが「哲学」と呼ばれてきた知の本質であるということ、その「哲学」の原点になる「超自然的原理」が、徹底して自然のなかでものを考えるわれわれ日本人にとっては理解不可能なものであること、こういったところから、「哲学」はわれわれ日本人にとって縁遠いものだったのだと思います。

 

所感

 「反哲学入門」を通読してから別の哲学史の本も読んでみたところ、ソクラテスからヘーゲルまではだいたいおなじメンツが並んでいた。これは、ヘーゲルまでは哲学者達の間でも共通の土台、基礎的な背景として共有されている、ということだと思われる。一方、ヘーゲル以降に紹介される人物は、哲学書によってまちまちだ。

 「反哲学入門」では、ヘーゲル以後、ニーチェハイデガーを辿って、木田先生の「反哲学」への導入となるよう構成されている。(これはたぶんニーチェ系。)

 別の入門書、「世界十五大哲学」では、ヘーゲル以降にキルケゴール(かっこいいタイトル「死に至る病」で中二病患者にはお馴染み)、マルクスエンゲルス資本論おじさんズ)、サルトル実存主義おじさん)などが並んでいる。これはたぶん実存主義系。この本を書いたのはマルクス主義哲学を専門とする先生方である。

 これらを見ていると、ヘーゲル以降、1900年~くらいの哲学は、まだまだ歴史にはなっておらず、現在進行形で様々に花開いているらしいことがわかる。哲学史におけるヘーゲルは、ロック音楽におけるビートルズみてえなもんなのだろう。