ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

始まりいつもアーメン

 アーメン。何が笑いのツボに入るのか、自分でもよくわからない。

 先日見た「真夜中の弥次さん喜多さん」の映画版は、冒頭の雰囲気がなかなか良くて、土左衛門がクルッとひっくり返って色が揃う(?)シーンなんかはクスリと来たけれども、話が進んでいくにつれて、だんだん「面白いだろう」というプレッシャーが激しくなってくる。おぎやはぎと板尾にだいぶ救われはしたものの、後半は「面白いだろう」のプレッシャーがちょっと苦痛であった。

 目の前で面白いことをやってるはずなのに笑えないと、何かこっちが悪いことをしているような気がしてくる。生来か、あるいは環境的な要因でか、天邪鬼なパーソナリティを獲得するに至ってしまったことを呪うしかない。「笑わせに来ているもの」を、素直に笑えないのはこちらのせいなのだ。悲しい。悲しきモンスターである。テレクラキャノンボールなのである。

 ところで、この質問の中の一文に、おれは爆笑してしまった。

 一体何が面白いのかおれにもよくわからないのだが、このヤスタカ、とぼけた文体で随分と筆達者である。

 YAHOO知恵袋は人材の火薬庫だ。バルカン半島などお呼びではなかった。正気と狂気の鍔迫り合い、偽物、釣り師達の中に無数の天然、モノホンがひしめき、屏風絵でも描けそうな絢爛たる様相である。「おじいちゃんの魂が邪魔でテレビが見えません」とか、「Yoshikiのドラムって駄目なんですか?」とか、正気の沙汰とは思えない質問ばかりでワクワクしてくるし、頭空っぽの方が夢詰め込めると歌い上げた影山ヒロノブは慧眼であった(この場合、森雪之丞を賛えるべきであろうか)。

 中でも、叉焼を焼売と呼んでいる妻の話などは多々共感できる経験がおれにもあり、涙を誘った。かくなる上はおれも男の一大決心、バベルの党を結成し、政治生命を賭して自然言語の完全撤廃を公約に掲げ、供託金没収に向けて猛進する所存です。アーメン。