ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

AKM666

 ひどい夢を見た。不細工から生まれるはずだったブサ太郎が、上流から下流へドンブサコ〜、ドンブサコ〜、おばあさんは川で運命を選択していて、ブサ太郎は誕生することもなく太平洋に消えていった。

 運命を選択したおばあさんの後をスニーキングしていくと寒風吹きすさぶあばら屋にたどり着き、恐る恐る中に入ってみると高級マンションの一室で、いつかのあいつと高校時代の同級生がサッカー日本代表のテレビ中継(アフガニスタン戦)を見ようと集まっている。座り心地の悪いソファーに深く腰を下ろしたら、俺の沈み込みのせいで隣のバカが傾きながら「11人いる!」とか叫んでいて、それを聞いているのは俺一人だ。おまけに禁煙。

 21インチの古いブラウン管(これは高校の頃に自室にあった型)を見つめているのだと思っていたが、いつの間にかピッチレベルに一人で座っている。黒い服にホイッスルを携えた聖徳太子っぽい、それに審判っぽい、男か女かよくわからない、やっぱり聖徳太子を囲んだイレブンが口々に「疎にして密」とか「アニプレックス」とか「末法」とか好きなことを言いながらワンタッチでパス交換をしている間、太子は黙々とイエローカードに、時折レッドカードにも選手の名前を書き込んでいて、スリーアウトで選手が交代していく。ベンチには古田監督兼選手が「代打、オレ」のポーズで佇むが、ウグイス嬢のコールは「メガネに代わりまして、メガネ」。古田監督兼選手は誰と交代すれば良いのだろうか。なんで俺がハラハラしなければいけないのだろうか。

 態度の悪い客に謝っている店員のすぐ横に座ってしまったような気分に憤っていると、俺の視界の右下に「REPLAY」の文字が点滅する。左サイドの浅い位置から綺麗な放物線を描いたクロスに、ファーであわせようと走りこんだポリゴンの岡崎選手がジャンプしたとことでスローモーション。マンボNo.5、巻き戻し、再生、巻き戻し、再生、ズームアップ、巻き戻し、再生、ズームアップ、巻き戻し、再生・・・アップの岡崎選手は何故か中日のヘルメットをかぶっていて、内野フライをヘッドで綺麗にクリアーする。カメラがグッと夕日にパンして、俺は今日が、いや、世界が何もせずに終わりかけていることを知った。俺はそれがとても悲しいのだ。そして、それは俺自身だった。つまり、終わりかけているのは俺なのだ、という確信だけがここにある。後悔の、深い深い奥底に沈んだ、後悔などという言葉では到底見合わないほどの、黒い、固い、濁りきった汚濁と諦念の堆積岩みたいな感情そのものに、俺はなっている。岡崎選手も、古田選手兼監督も、もういない。いつかのあいつも、11人も、何もかもがただ黒い虚ろの中に小さく消えていく。いつか、遠い未来の考古学者が、この石を見つけた時には、もうなにもかもがわからなくなっているというのに。そんな心配も、もう杞憂ではなく、ただの現実になりかけているのに。落ちていく、しかし、いずこへ。いずこへ。それを俺は知っていた。

 

 マンボNO.5は、だいたいこんな感じの演奏だった。すこぶる名演である。

 現実の私は極めて平穏な生活を送っているのだけれど、夢と生活にはあまり因果関係が無いようだ。夢は、多分ランダムにアクセスされる記憶の断片を並べただけのものなのだろう。そのまま理解できるような代物ではなく、理解不能であるということは、正確に言語化することが不可能で、観察者効果の結果として現れてしまう本当は見ていなかったはずの嘘の物語を、脈絡の無い意味不明の羅列をかろうじて縫いとめるための糸として用いる以外に方法がない。つまり私が見ていたのは、こんな夢ではなかったのだ、ということになる。では、私の見た夢を他人に説明するには、一体どうすれば良いのだろうか。