ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

フクオー

 暑い夏の夜。冷やして冷やして冷やしきったキリンクラシックラガーが駆け抜けるとき、文明の勝利する音がゴクリと鳴る。または、すこし涼しい夜には日本酒も良く、島根県産の地酒がするすると杯から零れ出て、やがて平和を讃える音がグビリと鳴ることもある。寝苦しい朝には冷たい烏龍茶が、起き抜けには温かいコーヒーが、それぞれに何かを寿ぐ音を奏でる。豊かだ。

 身体の乾き方によって、しみ込む文章の種類も変わってくる。ノンフィクション期、エッセイ期、小説期が順繰りにやってくるが、今は小説期のピークらしい。家中の本棚から目につく背表紙を手にとっては、自室に持ち込んでいる。アルコールであれば困ったものだが、小説なら読みすぎて身体を壊すということもない。もちろん、沢山読めば良いということでもないが、読むものがなくなってしまうという心配がないのは良いことだ。世の中には既に小説が溢れかえっているし、汲んだそばから湧いて出てくるのだから魔法の泉である。

 1年間に、何編の小説が記されるのだろう。生み出され続ける小説を、読み尽くすことはもはや不可能に思える。消費が生産に追いつかないという不自然な状態が持続するのは一体なぜだろう。人間は、それほどまでに、何を記したがっているのだろうか。

 人類は、小説を継続的に生みだす巨大な装置だ。一人一人の人間は、真核細胞を構成する細胞小器官やミトコンドリアのようにそれぞれの性質や機能を有しながら、その個別の振る舞いの総和とは無関係に、全体として、つまり創発的に、小説工場という性質を示す。主たる働きを担うのは小説家だが、マクロであれミクロであれ、人類の営み全ては小説のネタとなり、小説家の創作を促すのだ。なんという素晴らしい世界だろう。事実は小説より奇なのではなく、事実は小説のためにこそ奇でなければならないのだ。

 この工場には有能かつ怜悧で、形而上的かつ編集者的な存在がましまして、哀れな子羊に試練をお与になられ、よりおもしろき小説を所望する。人間の過剰な創作意欲は、生産効率と品質向上の都合上、そのように動機づけられているとすら思えてくる。

 編集者め!奴隷は自ら進んで首を差し出しすよう、見事に調教されているではないか。悪とはこれだ。これが悪だ。植民地に生産させた商品作物を効率よく搾取するために、都合の良い教義と偽瞞だらけの道徳観念を宣布する宗主国の副王と編集者のイメージが重ね合わさった時、その顔はなぜかテリー伊藤であった。理由はよくわからない。