ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

リンクは常に更新される(「私」の曖昧さ)

ソーカルのように(?)書いてみよう

 

自分はとても嫌な人間だと、繰り返し繰り返し思っている

実は思っていないのだが、本当は思っている

 

俺の意識を見ている俺、自分と自分の関係において、俺が俺を嫌な奴だと認識している

ある意味で、俺も俺にとって他者の一人だ

 

一方、周囲の人々から、俺が良い奴、と評価されることがある

その判断もたぶん正しいのだと思っている

 

人間自体に「性格の良さ」というパラメータが設定されている訳ではない

ア・プリオリに性格の良い人間は存在しないのだ

言い換えれば、人の性格の良さは、常にア・ポステリオリに確認される

したがって、その判定はいつでも覆りうる

 

少し言い方を変える

 

人間を示すノードと、相互のリンクによって形成されるネットワークを想像する

これはつまり、社会だ

 

個々のノードは、例えば身長が高い、腕が短い、などの固有な物理的属性を持っている

このことは、各々のノードが「固有な精神的属性」をも持っている、という誤解を生じさせる

「ノードに固有な精神的属性」、つまり人の性格やキャラクターは、実は実体を持たない

 

中学の同級生と居るときの「私」

高校の同級生と居るときの「私」

大学の後輩と居るときの「私」

父親といるときの「私」

母親といるときの「私」

 

これらを想像すると、どの「私」も似ているが、どこか少しずつ形が違っている 

周囲との関係によってキャラクターや性格が変化することがわかる

 

人間の性格、キャラクターは、ノード自身が持つ固有の属性ではない

むしろ、リンクの方が「私」の性格を規定していると考える方が妥当だ

 

確固たる「私」の性格は想像の産物であって

本当の「私」などどこにも存在しないし、どれもが「私」なのである

精神的な意味での「私」とは、自分と他者を結ぶ全てのリンクの積分のことなのだ

 

俺の、あるいは誰かの振る舞いに応じて、俺と他者のリンクの状態は常に更新され続ける

俺の性格の良さは、常にア・ポステリオリに確認される

俺が良い奴であるには、常にそのような振る舞いをし続ける以外に方法が無い

その判定は、俺の次の行動によって、いつでも覆りうるのだから

 

色々なひどいことを考えていても、それを振る舞いに出さないことは大切だ

それは素晴らしいことで、文明の勝利と言っても良い

しかし、俺には俺が考えていることが見えてしまう

これはもう致し方の無いことなのだ

 

俺が俺に対して抱くイメージ、それは 1/n の重みだけを持つということがわかっていれば良い