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ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

品がなく、意味がなさそうで、実は意味がありそうだけどやっぱり品が無い食べるラー油(食べるラー油概念の拡張)

 タイトルに特に意味はありません。

 最近「人類は皆ハイパーうんこクリエイターなのだ」というような(しょうもない)ことを書きたい気持ちになる日が多いのだが、その際「ハイパーうんちクリエイター」と書くよりも投げやり感がするかなとか、「うんち」とやや和らげて書くことに何か透けて見える自意識があるな、などと考える。そして、そんなことを考えていること自体酷く内省的だな、というようなことを私は今まさにインターネッツにアップラ・プロードしている(うきうきしながらサーバーに転送している様子をご想像ください)。

 次いで、このアップラ・プロード行為が人に与える印象と自意識の乖離は云々、といった具合に再帰的に自我が呼び出され、深いネストが形成され、自我の中の自我の中の自我の中の俺は悲鳴をあげ、その最中に「ハーフタイム入れる俺の魂」と囁く声がプロセスに割り込んだ挙句、メモリがリークして俺が寝る。豚のように。何故俺がかくもシューゲイジングな精神性を身につけたかは不明である。

 前段では人類は皆ハイパーうんこクリエイターなのだと定義した。それは文字通り大便を製造する装置としての人間観であり、うんこというのは大便のことを指しているに過ぎなかった。ここで私はうんこ概念の拡張を試みようと思う。この文章もまた、うんこの一つだとしたら。その仮定が何の意味を持つのかと言うと全然無意味で、なんで書いてるんだかよくわからなくなってきました。嗚呼。

 例えば、俺が缶詰のコーンを食うのにさしたる理由は無い。コーンを食いたいとか、腹が減ってそこにあったからとか、その程度の理由だ。間違っても、うんコーン(命名:姉)を出力したいが為にコーンを食っている訳ではないということについては、ご理解いただけるだろうか。そして同時に、出力されたうんコーンが予め「そうしてやろう」という意図のもとに生み出されたのではなく、ただただ偶然的に(そこにあったからという理由で)、しかしながら必然的に(食ったものは当然出るので)生成されたことも、ご納得頂けるだろうか。

 つまるところ(うんこが、という意味じゃないですよ)、優れた文章を書きたいならば優れた食事を取らねばならず、結果気づいたら尻から優れた文章が出てしまうという夢の様な体質を持った奇人達が文豪とか作家になるのではないだろうか、と私は思う次第です。

 俺はうんこうんこ書いてしまうような食事を日々とっていますという救いの無い結論と共に、俺には姉はいないということを告白して今日も豚のように眠ろうと思います。うんコーンっていってた姉、誰の姉だったっけ。名盤「人糞力人糞製作所」のitunes配信を切に希望します。