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ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

遅れてくる

妄想

 横になって、眠らずに考えていることの速度に追いつく言葉など存在しない、と思う。

 自分の周りに生活している人々が、自分と比べてなんと上等なことだろう、と考える。私は利己的で冷徹である。ある人にある時、どんな言葉をかけたか、というようなことを思い出しながら、改めてそう判断し直している。どこからどのように眺めてみても、私はおよそ社会動物としてまずい部類の不出来だ。

 私はダメなのだ、と考えていることを表明すると、太宰治の小説に出てくる主人公のようである。太宰自身は多分、主人公にそのような心情を語らせつつも、自分が人間失格だったとは全く思っていなかったのだろうし、人間失格を書いた直後にうっかり死んでしまうあたりがお茶目であると私は思う。読者がその辺の一切を誤解した上でうっかり共感するところまでを含めて、よくできたコントっぽいのだ。

 ところで、私が自分で私を人間失格だと考えるのは、ややidealisticだ、という風にも思う。内面こそ至上、私の心が真実、つまり本当の私は私しか知らないのだ、という感じの傲慢に立脚した認識だ。これは哲学的ゾンビの思考実験が提示した問題点と(そもそもの意図とはだいぶ違うのだろうが)共通する何かであるように思う。人間の内面という確固たる何かが存在するのかどうかということは、結局よくわからない。

 私は私をクソだと思うが、周囲からみた私の振る舞いがクソに見えない場合、果たして私はクソなのだろうか。クソではないのだろうか。

 例えば、浮気はバレないようにするのがマナー、などと考えている人間が、自分がクソだということを可能な限り包み隠して生活することにより、周りの人が不快にならないのであれば、それはそれで結構なことではないか、と思うあたりがクソであり、以降、再帰的に呼び出し続けてリソースが枯渇して、私は考えるのをやめた。

 このようなことが30秒くらいで形をとって、消えて行く前に文字にしておこうとするそばから、どんどん消えていくから、すくって形を整えている間に、さっきまで考えていたことは本当にこれだっただろうか、ということが怪しくなっていく。つまり、言葉は常に遅れてやってくるのである。やはりいっこく堂は慧眼であった。