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ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

鰯太郎のSNS離れが叫ばれるSAKKON

 2ヶ月くらい前に、facebooktwitterのアカウントを削除した。そこでしか連絡を取れない人も結構いて、音信不通になってしまった(ごめんなさい)。そのようなデメリットはあったものの、結果としてはアカウントを削除して良かったと思っている。

 アカウントを削除した時、何か取り残されてしまうような不安があった。俺はそこからいなくなってしまうのだけど、俺のいない世界はそのまま平常運転を続けている。これは、自殺のようなものだ。アカウントを削除したのが明け方だったのは偶然ではないだろう。

 ただ、本当に死ぬのとは違って俺は生きているし、鬱々と落ち込んで、衝動的にアカウントを削除した訳でもない。「あー、なんかやめとくかー」ぐらいの感じ。バーチャルの世界は見えなくなって、すぐに気にならなくなった。俺が勝手に大きく複雑だと思い込んでいた人間関係も一気に小さく実情に即したサイズなって、すっきりと見通しがよくなった。結局、俺が会いたい奴には会いに行くし、俺に会いたい奴も勝手に会いに来るだろう。そうならないならば、別にそうならなくて良いのだろう。「実情に即している」というのは実に良いことだ。

 「いいね疲れ」とか「バーチャルの人間関係に疲れた」とかそういうものではないけど、なんとなく淀んでいると感じていたのだと思う。連絡を取ろうと思えば取れる、そしてたいがいの場合能動的には会おうと思わない人との距離感とか、各人の日常の情報がなんとなく目に入ってきてやんわりと情報を共有している状態とか、バーチャルな空間の中に形成されたゆるやかな連帯の中に、さも自分の居場所が存在しているかのように錯覚したりとか、そういうのが全部、うざってえと34歳児は思った。使うかもしれないから取っておこうみたいな、または、ちょっとうるさいんでほっといてもらえますか、というような感じ。絆という言葉の気持ち悪さみたいなもの。

 山本直樹の短編に「もっとマシな人生があったかもしれないという悪夢」という台詞がある。とても鋭い言葉だ。Facebookで、Twitterで、各々が各々のタイムラインで突きつけあっているものの正体のひとつは、多分それなんじゃないかと思う。