ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

死んだ(墓場へ進む)

 明け方には自殺者が増えるというが、実に納得のいく話だといつも感心する。静かで明るくなりつつある人通りの無い街を歩いていると、何かを綺麗さっぱり捨ててしまっても良いかなという気分になるのも無理はないと思えるのだ。

 実際のところ、人間の行動に確たる理由やそうすべきである確信が存在することの方が稀で、人間の行動を決定付けているのは、その日の気温と湿度、起きた時間、街の人通りの無さや、大気に反響する暮らしの音だったりする。少なくとも、俺の行動が惰性と手拍子、その瞬間の気分によって実になんとなく決定されていることは確かだ。

 いかなる時も、自発的に、自己決定的に、行動していると考えるのは「よりよい人生」にとって有効な処方箋である。だが「事実として自分は常に自分の意思だけによって物事を決定している」と言う人がいれば、認識に瑕疵がある。人生は、自我、意思、理論、あるいは戦略、リスクとリターン、メリットデメリットのようなどうでもいい概念などにではなく、もっとしょうもない、愛らしいものによって左右されるべきなのである。

 生命というものは、どんな犠牲を払ってもこれを延ばしたいというほどまでに、愛着せらるべきものではあるまい、と私は考えている。そのようにのぞんでいる君が、どのような人間であるにしろ―よし君が不品行な乃至は罪悪に充ちた生活を送ったにしても―どのみち君は死ぬことになるのだ。だからして誰もがおのが魂の良薬として何よりもまず次のことを銘記しておくべきであろう、―自然が人間に与えてくれたあらゆる賜物のなかで、時宜をえた死ということにまさる何物もないのだということ。そしてその場合にも特に最上のことは、誰もが自分自身で死の時を選ぶことができるということなのだということ。(ショーペンハウエル「自殺について」の一節)

 覆水盆に返らず、であるが、時宜を逸するということはそれもまた手痛い損失なのであって、非可逆的な変化を恐れるあまり時計の針だけが進み、気づけばひっくり返す盆まで巻き上げられているということもよくある話で、それより僕と踊りませんかと切り出した井上陽水は卓見だった。時間の経過こそが非可逆的な変化だという基本的事実を失念してしまうことは多い。