ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

電王戦ファイナル第一戦、日本的幽霊、かっこいい斎藤五段

 電王戦ファイナルの第一戦を、70手目辺りから終局まで観戦していた。斎藤五段がかっこ良かった。痺れた。以下、思ったことを書く。

 将棋が好きで、たまに24で指すこともある。レーティングは300にも満たないヘボなので、純然たる下手の横好きだ。もう弱いことがわかりきっているので、気楽で良い。弱いなりに多少でもかじっているのでわかるが、プロ棋士は全員超人だ。三段リーグを突破してるだけで、並みの頭脳ではないことが証明されている。

 SFも好きだ。SFの大きなテーマの1つにロボット、人工知能がある。古くは月は無慈悲な夜の女王から、攻殻機動隊に至るまで、あらゆる作品に人工知能が登場している。技術的特異点、と聞くと、わくわくしてくる。

 将棋もSFも好きだから、電王戦は実に興味深い。将棋とSFは親和的だ。将棋には偶然の介在する要素が無い。指せる手の種類が多く、選択肢の組み合わせ数が爆発し、人間には完全に読みきることが事実上不可能であるから今は遊戯として成り立っているが、遠くない将来、この遊戯の寿命が尽きる時がくる。

 将棋の魅力が完全に失われる訳ではないが、勝ち負けを争う遊戯としては用をなさなくなってしまう。将棋は、ゲーム理論において「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に分類される。全ての手順の組み合わせを検討できる演算能力があれば、1手目を指す前から先手が勝つか後手が勝つか、あるいは必ず引き分けるかが判明する種類のゲームなのだ。それで、将棋ソフトは人工知能研究の1ジャンルになっている。ヒューリスティック分析や水平線効果など、実践研究にうってつけのゲームだからである。

 アナログゲームを題材とした小説集「盤上の夜」の中に、将棋が将来たどるであろう道を先に行った「チェッカー」というゲームの短編がある。もちろん、この小説の眼目はチェッカーが先手必勝のゲームなのか、あるいは後手必勝か引き分けか、という点では無いが、描かれている人間のチャンピオンとコンピューターの鍔迫り合いは、現在のプロ棋士人工知能の戦いに通じる。

 将棋は、その歴史の中で最も輝く瞬間を迎えている。どこまでも個人の戦いである将棋の、最高峰にいる超人達が、人間を凌駕しつつあるコンピューターを相手に手を携えて挑む。熱すぎる展開ではないか。初戦を戦った斎藤五段は実に素晴らしかった。電王戦開催は、亡くなった米長会長の英断であったと思う。

 一方、電王戦中のコメントや大盤解説を見て、俺は坂口安吾の「散る日本」を思い出してた。Aperyの敗勢が(俺の目にすら)明らかな局面で、投了をしない人工知能や開発者に憤る向きが多く見られた。鈴木八段の「棋譜を残すのも棋士の仕事」という言葉には中々に重みがあり納得もしかけたのだが、やっぱりよくわからないのであった。

 安吾は、当時ピークを過ぎていた木村14世名人について、以下のように記している。

名人戦の第六局だかで、千日手になるのを名人からさけて出て、無理のために、破れた。自分を犠牲にして、負けた。その意気や壮、名人の大度、フェアプレー。それは嘘だ。勝負はそんなものぢやない。千日手が絶対なら、千日手たるべきもので、それが勝負に忠実であり、将棋に忠実であり、即ち、わが生命、わが生き方に忠実なのである。名人にとつては将棋は遊びではない筈で、わが生命をさゝげ、一生を賭けた道ではないか。常に勝負のギリギリを指し、ぬきさしならぬ絶対のコマを指す故、芸術たりうる。文学も同じこと、空虚な文字をあやつつて単に字面をとゝのへたり、心にもない時局的な迎合をする、芸術たりうる筈はない。

 坂口安吾は、「実質」に強いこだわりを持っていた。惨憺たる有り様で敗戦を迎えた日本と、木村名人の姿を重ねた。

すべて日本のかゝる哀れサンタンたる思想的貧困が、この戦争の敗北と共に敗れ去らねば、新しい日本は有り得ない。権威の否定とはさういふことで、日本を誤らしめてゐた諸々の日本的幽霊をその根本に於て退治することであり、木村名人は十年不敗の権威によつて否定されるのではなく、将棋に不誠実なること、将棋以外の風格によつて名人的であつたこと、架空の権威と化しつつあつたために、負けるべき性格にあつたのである。精神にたより神風にたよつた日本が破滅した如くに、名人は敗れて、自ら天命也といふ。まことにバカバカしい。だから負ける性格であつた。

 「形作り」や、「美しい棋譜」「棋譜を汚す」などの言葉が端的に表しているその思想、しきたり、礼節のようなもの。これに対して、Apery、Ponanza、ツツカナ、人工知能達が終盤に見せる、水平線効果の発現。いわゆる「思い出王手」や「いつものやつ」。

 人工知能にも、評価値という数字で明らかに劣勢なことが判断できている。可能性が0%か0.1%かの違いであっても、Aperyはその数値が高い方を選択した。投了という美しい自殺を選ばない姿勢を、むしろ賞賛すべきだと俺は思う。将棋は次戦に駒を持ち越せないのだから。

 日本的幽霊は65年を経た平成の世にも脈々と生き延びているようだが、斎藤五段とAperyの生み出した棋譜は美しかった。斎藤五段は侮ることも怒ることもなく、短手数で相手玉を詰ませることに真摯に向かっていた。緒戦の勝利、おめでとうございました。