ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

接続詞と論理の捏造

一昨日から、普段と異なるものの書き方を試している
「蟹に誘われて」に収録されている文章の形式を参考にした
読んだ後に不思議な余韻の残る、素敵な文章だ

書く人間が違えば当然、語彙も着眼点も帰結も違う
だからお手本の文章とこれは、全然似てはいない
しかし、内容が似ていないのはどうでも良いことだ
他人の形式を模倣すると、いつもは使わない脳の部分を刺激する
それが重要だ

まず、接続詞を使うことに注意深くなった
接続詞を使うと、文章が「馴染む」ように錯覚していたかもしれない

次に、すらすらと書くことができる感覚がある
短く書こうとするからか、注意が今書いている一文にだけ向くように思う

多分、僕の頭の中で渦巻いていることの大半は、全く論理的でない
だから、接続詞を使おうとすると齟齬が生じてしまうのだ
今、まさに考えていることは、常にしっちゃかめっちゃかだ
それを記録しようという時に、うっかり前後の繫がりを捏造してしまう
その作業に演算能力を割いていると、筆(筆?)が進まない
そういう仮説を立てている


早速、前段とは関係のないことを書く
「ご冗談でしょう、ファインマンさん」を読み終えた
(今日、一人称が「僕」なのはそのためである)
ロスアラモス時代を回想する章の終盤が、特に素晴らしい
僕が「リアルだ」と感じる表現のひとつの例なった
青鬼の褌を洗う女、母の死に際してパチンコ屋で彷徨する夜、さくらまなのセックス
これらに共通する要素について、いずれ落ち着いて考えよう