ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

理想の一人称

 

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 仕事でもないのに、よく文章を書く(ヒマなのか)

 それで、決まって一人称に迷う。いつも揺れている。もしかして、日本で最も一人称に迷っているのは私なのではないでしょうか。考えすぎでしょうか。でもでも、日本で一番ということはつまり世界で一番なのではないでしょうか。世界一の男?俺が?はっはっは。お嬢ちゃん、私は世界一位なんだよ。はっはっは。何しろ、私は世界一位だからね。はっはっは。(寿司つまむ)

 自分の事を、名前で呼ぶ女がいる。何か考えあってのことなのだろうか、それとも自然とそうなったのだろうか。

 そねみちゃん、がいるとする。「そねみはー、お寿司たべたいなー」と言う。俺は世界一位なので、鷹揚に笑うだろう。はっはっは。何しろ、私は世界一位だからね。だが、そねみは何故自分をそねみと呼ぶに至ったのか、そこは少し気になっている。姉、ねたみとの確執だろうか。

 男も想像してみる。木村拓哉が「拓哉さー、ちょっとまって欲しいんだよね」と言う。工藤静香(旧姓)は待たずに行ってしまうだろう。どこへ行くのかは知らんが、拓哉ではない何処かへだ。やっぱり、日本で唯一ライセンスが認められている男性は矢沢だけなのである(矢沢は特別なのだ)。

 比べてみると、女ならまあアリかと思う。ややぶりっ子のニュアンスはあるけれど、男と女では「自分を名前で呼ぶこと」の印象はだいぶ違う。男は、矢沢以外が言ってはダメだ。まあ、おまけでKABAちゃんも良いことにしよう。どうでもいいが。

 俺は、我が強い時に「俺」と書きたくなる。リーゼントな感じがある(心が)。柔らかい時、弱い時は「僕」が気分に合う。リーゼントもふんわりだ。少しカタイ文章や、公的な場面では七三分けの「私」である。いっそうパブリックな状況では、「私」と書いていても「わたくし」と読んでいたりする。業務でメールをやりとりしていると、杓子定規な文面に、敵の保身が透けて見える時がある。そういう時は、「あてくし」と読んでいる。相手に許可は得ていない。

 英語圏では、一人称は全て「I」である。俺が無学なだけかもしれないが、そうらしいのだ。そうだったらそうなのである(自信が無いのでリーゼントが威嚇している)。なんだか大雑把というか、ツヤが無い。一方で、ねばつく自意識とは距離を置いた、カラッとした印象もある。「恥の多い人生でした」なんて言わなそうである。そういえば、イギリスには玉川上水も無い。エゲレス人は、不便ではないのだろうか。なよなよした心境なのに、「アーイアム」と構えなければならない。その構えが紳士を育むのだろうか?カッコイイステッキで、己の弱気を支えているのだろうか?

 日本語の一人称は、英語に比べれば随分豊富だ。俺や僕などそれぞれの語にイメージがあって、TPOに合わせて気軽に着せ替えることが出来る。以下に「男性用の一人称」が付く漫画タイトルを2つ挙げて、なかなかに動かしがたい一字であることを確認してみよう。それぞれの語にイメージがしっかり着いている。

例1)俺物語!!

 「僕物語!!」とすると途端に気持ちが悪い。こういう奴がストーカーになる。

「私物語!!」なんか西尾維新原作である。めだかボックスは残念でしたね(何が?)

例2)僕等がいた

 「俺等がいた」何故今まで気づかなかったのだろうか。タイトルの前に「あ、」と思わず発しているのが聞こえる。いまさら発見するあたりが馬鹿者感に溢れている。全員歯が抜けているし、山本さんは輪姦されているに違いない。ギギギ。

「私等がいた」もう明らかに変である。語呂も悪いが、それより責任感の欠如がおびただしい。私らがいただけなんで。カンケーねーっスよね。ダりーんでもー帰っていいスか?腹が立ってきた。腹立たしいこと改札前の狭い通路でダベっている主婦の如し!(これも語呂が悪い)「手前共がおりました」だろうがーッこのボケがーッ!

 手前どもで思い出したが、敬語表現や古い言葉の中にも一人称はたくさん転がっている。以前、バイト先に自分の行動を逐一報告する軍隊のようなおじさんが入ってきたことがあった。万事につけ「小生は、五分ほどローソンに行ってまいります」という具合で、へりくだっているのに妙に押し付けがましい。結局「小生」はそのままあだ名として採用されて、一人称から三人称に格上げとなった。「小生いる?」「ああ、ローソン行ってるよ。」事情を知らない人からすると、妙な会話に聞こえただろう。しかしまあ、二階級特進は名誉なことであるから、些細な点は気にしなくて良いのだ。

 そんなことを考えながら環八沿いを歩いていると、暴走族のような少女達が乗ったバイクが3台、前方から走ってきた。「ような」と書いたのは、彼女たちが暴走していないからである。それどころか、ブブォォン!とかアラぁ!とか口で言いながら、法定速度くらいでゆっくり走っている。すごい!バイク本体は至って静かだし、安全だ。立体交差で少し速度が落ちている。地方にはバイクにすら乗らない暴走族というのもあるらしいが、バボンバボン言っているのを実際に目にしたのは初めてであった。

 姿格好はちょっとヤンキーである。が、表情はどこか明るい。パパママごめんね、とは思っていないようである。マスクをしている子がいる。みな、ジャージっぽいものを着崩している。髪は傷んだ金色であった。僕は微笑ましい気持ちになっていた(こういう場合、僕、である)。

 彼女たちは、自分を何と呼ぶのだろうか。アタイが濃厚ではあるが、ウチという線も捨てがたい。都会型ヤンキーで、暴走音を口から出しているような子たちである。頭は軽そうだが変にスレてはいない。ということはやはりウチ、ではないだろうか。わたし、あたし、あーし。ヤンキー娘は何故か意外に女らしいから、俺とは言うまい。不思議な転倒だ(全部勝手なイメージだ)。

 アタイには、はすっぱな印象がある。ちょっと自分を卑下している感じすらある。優しくして(あわよくば一晩泊めてもらって)やりたい。が、情が湧いて真面目な将来の話をはじめたりすると、俺を遮って「そんなことよりさ」「ジルバ踊ろうよ」である。ジルバ!場末のスナックといえばアタイで、ジルバ踊る力がすごいのだ。タンゴでは台無しだ。別の店では、ジルバを自称しているのではないかとすら思う。「ジルバねー、男のヒトスキけどー、お金くれるとモト好きヨー」お前、日本人じゃなかったのか!

 フィリピンパブのジルバちゃんはともかく(?)として、女性の一人称は選択肢が少ないのかもしれない。普通はわたしかあたし、それ以外のアタイ、ウチなどはイメージが極端である。俺、僕のように、モードに合わせて気軽に使い分けられる一般的な一人称が無いから、しっくり来る言葉を探しているうちに自分の名前に行き着くのかもしれない。

 つまり、それはある種の個性の表現なのであった。自分の名前は自分だけのもの。オーダーメイドの一人称。あだ名も含めて良いならば、無限の一人称がそこにある。しかし、無秩序な自由を、本当に自由と呼べるのだろうか(お?)。型の中で創意工夫することで自ずから型が破れてしまう(雲行きが怪しい)、そんな表現こそ真に自由で個性的なのではないのだろうか(なんの話だ?)。

 ワタッシー、とかどうだろう。アターシー。アタッシュ。あ、ダメだ。戦略的撤退。

 飽きてきたので結論を述べる。私の理想の一人称は、アケミのアタイよりも僕っ娘的な僕。体言止めによる独特の余韻。僕っ娘なんて絶対地雷なんだけど、それがいい。いかにもクセがありそうでいいじゃない。コントロールの良いピッチャーが放る110キロ台のスローカーブを俺のバット(やや反省)でレフト方向(思想的な含意はない)へ転がしたいのだ。窓辺で本を読んでそう。友達が少なそう。ケレン味たっぷり。バットに当てても前に飛ばないのが良い。やや詰まった打球はピーゴロ気味で、俺は必死に走るし、僕っ娘は退屈そうにファーストへ送球する。滑り込みセーフの内野安打。どうだ。見たか!僕っ娘は「なんでそんなに必死なの?」という顔。いいぞ。もうひと押し。

 一方、アタイは速球を外角に放り込んでくる。ボール一つ分の出し入れが出来るほど器用なタイプでもないのに、際どいところを攻めて自らカウントを不利にするのであった。それに、球速があってデッドボールも怖い。人生の制球力に欠けている。ジルバが踊れないというのは表向きの理由で、本当は俺もアケミとの未来が怖いのだ。勿論、フィリピンパブにも行ったことがない。