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ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

園子温考(またはヤナカくんの使用済みバイブについて)

 友人に、ヤスという男がいる。ヤスは、一言で言うと変人だ。道を歩いていても全く変に見えないのが白々しいと感じるほどの変人だ。人呼んで「綾瀬の怪人」。他に、「無口なお喋り」「不審なアンちゃん」「インチキ・フレーバー」など。全部俺が呼んでいるだけだが。

 ヤスに連れられて新宿のクラブに行った時のこと。ヤスに紹介された友人が「お近づきの印に」と言って手渡してきたのが、ひと目でそれと分かるバイブだったことをよく覚えている。クラブの暗がりでバイブは怪しく光り、ウィンウィンと音を立てていた。高度な政治的メッセージというものは、時として馬鹿馬鹿しい形態で表現されるものだ。ウィンウィンの関係を築きましょう、俺はそう好意的に解釈した。そしたらそいつ、俺の手の内でうねるカリ高の機械を指さし、「ちゃんと使ってありますから」だって。バカじゃねえの。その後バイブの彼とは会っていないが、元気にウィンウィンしているのだろうか。

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ちょうどこんな感じだった。

 なんだっけ。ああ、午前中に「ヒミズ」を見たという話をしようとしていたんだった。園子温監督作品は2本目で、1本目は以前ヤスに「いいよ」と薦められた「冷たい熱帯魚」である。(※以降、冷たい熱帯魚ヒミズのネタバレを含みます)

 冷たい熱帯魚を見て思ったのは、園子温っていう人は人間の負の面にフォーカスしたいんだな、ということ。率直に好みに合うなあと思った。人間のヤバイ話というのはすごく面白くて、俺も暇な時はよく口を開けながらインターネットネットしている。シリアルキラーの記事とか、戦争犯罪の話とかを調べていると、3時間くらい経っているときがある。

 想像力の豊かな人に無理にすすめるつもりはないけど、大量虐殺とかシリアルキラーとかサイコパスとか(あと地方の因習とか)、そういう凶暴性がむき出しになっている人間、その営みはとても興味深い。そして、園子温はその凶暴性も人間の一面だと感じているに違いない。俺の中のサブカルゴーストがそう囁いている。いるったらいる。

※シリアルキラー、サイコパス、事件などのワードで調べれば、実例が結構出てくる。犯人がサイコパスと思われる有名な事件では、北九州監禁殺人事件、埼玉愛犬家連続殺人事件(冷たい熱帯魚のモデルとなった事件)などがある。残酷なので繊細な人は読まないよう注意。

 冷たい熱帯魚には、強者であるキチガイと、主体性が無く言われるままに行動する愚かな弱者しかでてこない。「父殺しの物語」を鋳型として、自分の意思やそれを支えるインテリジェンスを持たない弱者が上下関係をひっくり返すにはキチガイになるしかないという構造になっている。主人公はサイコパスの「社長」を殺して、今度は自らがサイコパスになり、最後は娘の前で自ら頸動脈を掻き切って死んでしまう。が、それも結局自分の娘に父殺しをさせたに等しい結果に終わり、死んだら死んだで娘に死体蹴りくらっちゃって、全然救いがない。ひどい映画だ(面白かったけど)。それに、結末だけでなく、死体を解体するシーン、解体する社長(でんでん)の台詞などがかなりイっちゃっていて、そこまで人間の悪意、狂気をむき出しで描くかー、と感心したものだった。

 ところで「ヒミズ」には古谷実の原作漫画がある。俺の世代にとって古谷実といえば「稲中卓球部」で、その作者が「ヒミズ」を描いたのだからえらく驚いた。井上雄彦が「課長桜木花道」を、赤松健が「賭博黙示録ネギま!」をやるみたいな衝撃。ハナレグミの新作はジャーマンメタルのフル・アルバム!みたいな。クボヅカ君のTシャツに「マスコミ志望」って書いてあるみたいな。(もういい?)

 とにかく、中学で稲中卓球部を回し読みしていた(それで卓球部にも入った)俺からすると、原作「ヒミズ」は本当に古谷実かと疑うほどの重苦しい話だった。主人公の住田は次々と世界から見放されていって、冷たい熱帯魚同様、父殺しを経て父と同じ「クズ」になり、最後には自殺してしまう。

 だから、園子温が「ヒミズ」を映画化したことには合点のいく感じがあった。園子温以外、いないだろうなとすら思った。ところがどっこいなのである。

 見終わって言えるのは、映画「ヒミズ」が予想に反して強力にポジティブなメッセージを伝える物語だったということ。基本的な設定と物語の流れは原作に準じているものの、結末は全く違う。住田は茶沢さんに諭されて、父を殺した罪を受け止め、償い、「まともな大人になる」ために自首することを決意するのだ。茶沢と住田は二人で、川沿いの土手を「住田がんばれッ!」と叫びながら駆け抜けていく。「世界に1つだけの花」から漂う欺瞞の香りを鼻で笑い、街で愛を歌うイケメンミュージシャンと、その弾き語りライブをうっとり聞いている客に対して発狂寸前の憎悪を抱く通り魔を描写しつつも、最後は住田と茶沢さんに「生きろ」と訴えさせる。見た人間は、あたかも自分が「頑張れ」と言われているようだと感じる。これは、「冷たい熱帯魚」を撮った園子温とは何かが違うと思った。撮影直前に発生した東日本大震災を受けて台本を大幅に変更したという経緯を聞いて、なるほどと納得がいった。

 映像を見れば震災の影響は明らかだ。ガイガーカウンターを想起させる警告音の中で瓦礫の山を彷徨う住田のイメージは、震災の10年近く前に完結している原作には存在し得ない描写だ。

 原作では同年代の友人だったサブキャラクター達の多くは、被災して住田の家の周辺に流れてきたホームレスへと設定が変更されている。「ホームレス」の部分は、おそらく園子温周りの役者陣(吹越満神楽坂恵、渡辺哲、諏訪太朗あたり)が出演するのに自然な配役になるようにとの意図でもともと決まっていたのだろうと想像するが、そこに「被災者」の設定が追加された。台詞も随分変わったのだろう。金子(でんでん)と夜野(渡辺哲)の応酬は、ほとんど書きなおしたのではないか。

 それと、最も大きな変更は、結末そのものだと思う。当初、住田は死ぬはずだったんじゃないか。茶沢さんに殺させる展開までありえたと思う。それを、変えたんじゃないかと思う。園子温は「絶望からの再生」をテーマにせざるを得なかったのだ。そうしなければならない気持ちの変化が起こったに違いない。

 世間が正常なら、狂った映画をやってもオッケーだ。マジョリティに対するカウンターとして、冷水をぶっかける立ち位置を取る意味がある。だが、日常が吹き飛んで、街ごと壊滅する地域や、燃えながら津波に流されてしまった人たちがいるその最中に、「自分のルールでがんじがらめになっている住田が、親父を殴り殺して死ぬしかないという結論に至る悲喜劇」をやる意味を、考えてしまったんじゃないだろうか。

 ま、言うまでもないですが俺が勝手に想像しているだけなので、台本がどう変わったのか、監督が本当のところ何を考えて撮ったのかなんてわかりませんよ。でも、何にせよ結構な覚悟で撮ったのではないか、とは思う。

 最後に作品自体には関係ない文句。最近、映画の宣伝コピーがいつも気になる。ヒミズは「世界が号泣!!魂を揺さぶる衝撃の青春感動作!」だそうだ。結構高い志で作られてる映画だと思うんだけど、それを震災をネタにした感動商売に貶めちゃってませんかねー。あと、邦画はDVDに宣伝入れすぎ。本編に関係ない宣伝、要りませんから。見ませんから。おれCMの間、ヤナカ君に貰ったバイブ弄ってますから(今唐突に名前思い出した)。あの邦画DVDのクソ宣伝の長さは何なんだろう。どういう金の流れになってんだろう。今度プロデューサーに質問してみよう。