読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ガタガタ鰯太郎A

〜鰯太郎Aは二度死ぬ〜

映画「ノルウェイの森」を考察し、感想を述べてみる。

 ノルウェイの森、見ました。すごかったー。良かったので、考察と感想を垂れ流すことを試みます。(あらすじには触れないが、見終わっていることを前提に書くのでネタバレします)

100パーセントの恋愛映画

 この映画が何なのかということが端的に紹介されているシーンが冒頭にあって、二回目に見直している時に気づいた。大学の授業中、チョイ役の教授(糸井重里)が教室で講義しているシーンで、講義内容がバックに音声で流れている。

愛する者に愛されないという、一方通行の愛の連鎖と、それが生み出す悲劇が、このアンドロマケという物語です。

 

 はい。これがまさに映画の主題だ。そして、講義の途中に活動家らしき学生が乱入し、「残りの時間を討論にあてたいから授業を切り上げろ」と教授に要求する。すると、教授はこう答える。

 ギリシャ悲劇より深刻な問題があると思えないが、好きにしなさい。

 これが監督、脚本家、誰の回答なのかは分からないが、この作品の姿勢についての宣言である。この作品は、愛する者に愛されないという、一方通行の愛の連鎖と、それが生み出す悲劇の映画ですよ、ということだ。もっと言えば、より深刻な問題があると思う人は他の映画を見なさいという、注意喚起ですらある。村上春樹が洒落でつけたキャッチコピーになぞらえて言えば、100パーセントの恋愛映画なのだ。

深く愛すること、強く生きること(ができたらいいのに)

 仮定法という英語の文法がある。現実には起こっていない、起こらない話をする時に使うものだ。「I wish I were a bird.」の例文がよく知られている。鳥になれたらいいのにという願望は、実際には鳥になれないことを含意する。

 この映画のプロモーションでは、「深く愛すること、強く生きること」というキャッチコピーが使われている。しかし、これは仮定法で表現されるべきだった。ナオコは強く生きることができなかったし、ワタナベも強く生きていくことが、おそらく難しい。

 ノルウェイの森は、「主人公ワタナベが強く生きまっせ!」という話ではない。むしろ継承される呪いの物語だ。序盤の3分くらいでキズキが自殺する。ナオコはキズキを深く愛しているために、精神を病んでしまう。物語の終盤に、今度はナオコが自殺する。ワタナベは深く傷つき、海岸で慟哭するシーンを経て、東京に帰ってくる。そして、

死者からはどんどん離れていく。キズキは17歳のままだし、ナオコは21歳のままだ。

というような台詞を独白する。前を向いて歩き始めた生者は、歩みを止めた死者から徐々に離れていくのだ、(ワタナベは前を向いてあるきはじめた)という意味だ。そして、ミドリからの好意を受け入れる。これで物語が締めくくられるかのようにも思えた。ここまでで終わっていれば、キャッチコピーに偽りなしだった。

 しかし、最後の電話の中で何気なくミドリから発せられた問いにワタナベが答える一連の会話の意味を考えると、呪いはワタナベに継承されたと考える以外ない。

ミドリ「今、どこにいるの?」

ワタナベ「あれ、俺は今どこにいるんだろう」

こんな問答。最後に用意されたこの一つの会話で、物語の意味がひっくり返ってしまっている。あー、終わった!アカンやつやこれ!ワタナベ行ってもうたー!っていうか逝ってもうたー!うおー!と思いながらエンドロール。

 序盤でナオコとワタナベが再会する時に、キズキを失って精神に失調を来し始めているナオコが、「ここはどこ?」というようなことを言うシーンがある。この時点でナオコはまだギリギリ正常だが、ほどなく施設送りになった。これがヒントだ。ワタナベは、物語の最後の最後で、ナオコと同じ症状を呈し始めている。自分が今いる場所がわからなくなることは、壊れる予兆なのだ。ワタナベはもうすぐ、なにかのきっかけがあれば壊れてしまう。壊すのはおそらくミドリだ。Oh No!ガッデムー。

生還者レイコ

 映画の中で呪いから解放されたのはただ一人、レイコである。終盤、沼のほとりに佇むナオコからレイコが離れていく場面がある。現実とも回想とも違う、イメージ映像のような雰囲気で、おっ変だなと思った。

 多分このシーンはレイコが解放されたことを象徴している。それと、ナオコが水辺に立っていることから、水辺は「あちら側」(水は死)である。

 ナオコと再会する直前に、池を映すカットがある。ナマズか何かが泳ぐことによって水底の泥が舞い上がる。これは、ワタナベが意識の底に沈めていたキズキの記憶が蘇るメタファーであると同時に、「あちら側」にいるナオコの登場を予告する意味を持っている。失踪直前のナオコの誕生日は、雨(死)が降っている。

 ともかく、レイコは水辺から、ナオコの側から離れることに成功する。呪いから解放される過程については正直意味がわからんのだが、ともかくワタナベとセックスしたら助かっていた。

 ナオコの死後、レイコがワタナベの家にやってくる。俺は嫌な予感がする。「一つお願いがあるの」と言い出す。出た!うぜえ!「抱いて」はじまったー!で、セックスしたら「7年前に失ったものを取り戻せたわ」wwwっw????wwっw???wっw??????

 超村上理論に基づいて計算された謎の救済によってレイコは救われている。課長島耕作じゃねーか!というがっかり感がある。弘兼と村上はどちらも団塊の世代だが、彼らはペニスを崇拝し過ぎている。弘兼的傲慢も、村上的ナイーブも、結局セックスをすればビジネスも魂も万事救済!の運びとなる。100パーセントのリアリズムが聞いて呆れるぜ、とは思う。だから「すっぽんパワー 皇帝」が売れるんだな、と妙な納得感がある。

 村上(トラン・アン・ユン?)がリアルに描けるのは男の方の描写ばかりで、例えばヤリ損ねた女(ミドリ)に固執する様は、滑稽だが実にリアルだ。ヤれたのにヤりそこねた女に対して、男はどこまでも固執する。身に覚えがある。覚えているだけで10回以上そういう夢を見た。恋する女性諸君は、恋する相手に対して「ヤれそうだったのにヤれなかった」という状況を作って御覧なさい。めっちゃメールくるから。

 しかし、レイコは何を救われとんねん。「この、悲しみばかりの世界から、お前をチンポで救ってやりたい(カタコトの外国人)」いうことかいな。なんやねん。なんで大阪弁になっとるんやろう自分。

 弘兼と村上で一つ違うのは、村上がセックスを儀式と捉えているフシがある点だ。劇中明示されている訳ではないが、何かこう、見えない漫画的なルール、戒律のようなものがあることを感じさせる。

Norwegian Wood HOW TO USE IT

一人の呪いを解くには、二人の犠牲がいる。

 呪いにかかった者が一人死ぬこと

 新たに一人が呪いにかかること

 新たに呪いにかかった者と交わること

 

 こういうルールでもあんの?みたいな。そうじゃなきゃレイコが救われた理由がさっぱりわからない(レイコがなんで救われたのかわかる人、是非その解釈をお聞かせください)。

 

最後にダラダラと感想を述べる

 救いのない映画。ナオコは、最愛の人間を失う悲しみによって発狂した。ワタナベは、ナオコを失うことによって初めて「最愛の人間を失う悲しみ」を理解したということになる。ワタナベは、ナオコが死ぬことによって初めてナオコに届く言葉を手に入れた訳だ。時すでにおすし!(沈んできたので己を奮い立たせる)

 ワタナベが円環の理に導かれて逝ってしまう直前に終わるのも良かった。

 村上春樹が現代サブカル女子に与えた影響が甚大だと痛感。男はこういうのが良いのね!と勘違いした大量のサブカル女を生み出したことだろう。性にあけすけなところなんかは特に、本当にありがとうございました。なお、こちらもあわせて見ると面白い。

 おやすみプンプンは、ノルウェイの森に非常によく似ていると思う。何がと言われると説明がめんどくさいが、浅野いにおの女の描き方は村上に良く似ていると思った。浅野いにおの方がよりどん底感が強いのと、そこまでセックスを神聖視していない点が違うくらいだろうか。

 演技が非常に良い。俺は俳優の顔を見てもあまり誰だかわからないのだが、それが奏功(?)したというか、菊地凛子の「うまく会話ができない」という演技が上手すぎて、日本語が不自由なのだと勘違いしたくらいだ。途中まで、日本語を必死に勉強したベトナム人かと思っていた(事前に監督がベトナム人だということは知っていた)。松山ケンイチも大根役者やなーと思っていたら、ワタナベが感情を抑制し続けている演技だった。ナオコが死んだあと、海岸で慟哭する時だけ、解放する。このシーンは背景のおどろおどろしさも相まって、非常に圧倒される。映像に気圧される、というのは初めてだった。

 いろいろと深読みしたくなるシーン満載で、5〜6回見てもまだわからないところがありそう。見たあとに人に話したくなる良い映画。