「いやな感じ」感想
空気が引き継げるのはだいたい20年分くらいだ、という気がする。子供は主に25歳〜40歳くらいの人がやっていることを見て育つからだ。その差が概ね20年。音楽の流行り廃りも、このくらいの周期でやってくる。
昭和50年代に生まれた子供は、昭和30年代から40年代に生まれたミュージシャン、作家、ジャーナリストなどの表現物を目にしながら育つ。彼らの創作の源になった原体験は、戦後、次いで学生運動、ベトナム戦争、並行して経済成長、最後にバブル崩壊といった具合だ。
そんな風に、表現された音楽なり小説なりドキュメントなり映画なりを介して、昭和35年くらいまでの社会や生活の様子を、私はなんとなく想像できる。
今の子供にとっては、オウム真理教、2つの震災、9.11あたりが想像できる限界になるのだろうか。
「いやな感じ」は1960年頃に書かれた小説で、舞台は戦前から戦中、1930〜40年頃であろうと思われる。これは、私にとっては想像の限界ギリギリの年代だ。歴史上の、教科書で学んだ、2・26事件、永田鉄山暗殺、支那事変などが、「現代社会=すぐ身の回りで起きたこと」として描かれる。
私には地下鉄サリン事件の翌日に日比谷線に乗った記憶があるが、作者の高見順は、それと同じような生々しさで2・26事件を記憶していたのだろうと伺える。記憶も空気感も共有していないから雰囲気が掴めないところもあるし、それがかえって新鮮でもある。
この小説は、ヤバさが剥き出しでとても良い。オブラートに包んでいないのだ。ディストピア小説も良いけれど、こういうリアル生き地獄小説もまた良いものだ。地獄でみんな生きている。読んでるこっちには現実感がまるでないのに、ついさっき見てきたことを思い出すように活写するものだから、クラクラしてしまう。良薬でないし口に苦いし、誰の為に書いたのでもない感じがとても良い。高見順は多分、この小説をオナニーのティッシュのように思っていたのではないか。そして多分、360度、四方八方に怒っていたのではないか。
突然秋になる
静かに雨が降る秋の夜空より、更に暗い庭木の葉陰を下から覗き込むと、顔面がびしゃびしゃに濡れた。当然だ。
眼鏡に次々と小さな水たまりが出来る。やがて重力に抗いきれなくなり、それが両の頬を伝ってはらはらと落ちる。はたから見れば私は悲劇の主人公のようであったろうが、しかし私が考えていたのは今晩のおかずのことであった。ぶり大根が良かろうか。
腰の高さの窓台に座ってこちらを見ていた猫が、ベッドの上へひょいと飛び移る。開け放たれた窓から侵入してくる冷たい空気に耳を逆立てて、少しでもぬくぬくと過ごそうというハラであろう。と、思っていたら、それは誤解であった。猫は不意に後ろ足を踏みしめ、小刻みに震えると私の掛け布団の上に小便を放った。そこはトイレじゃねえんだよなあ、と呟いてしまったものの、猫には言葉が通じない。しかし、一応はすまなそうな顔をしているようにも見える。この猫の名は三田。都営三田線に乗ってやって来たからである。